なつのまぼろし
大変に唐突なのだけれど、僕の恋人が鳥になった。
鳥は鳥でも、よりによってペンギンになった。
僕の恋人、シミちゃんはお医者様だった。朝早く出かけて夜遅く帰ってきたり、
帰って来なかったりした。会ったり会わなかったりだったけど、それでも同じ家の
中にシミちゃんの気配はいつもあった。そして、今日もあった。
明日から、僕はしばらく休みを取っていた。シミちゃんも休みだった。遅れてき
た夏休み。せっかくだから出掛けよう、という話になった。
シミちゃんは海に行きたがったけれど、こんな時期もうクラゲだらけで泳げやし
ない、海の家も無いよという僕の意見で、行き先は海の近くの温泉になりつつあっ
た、と思う。
随分前の話だ。珍しく2人が揃った夜で、リビングで晩酌しながら寝てしまった
のだ。起きたらシミちゃんはもう居なかった。
休み前のハイテンションで、お菓子を買い込んだ。ついでに壊れかけていた安サ
ンダルを新調して、シミちゃんの分も買ってあげた。
両手いっぱいに浮かれた荷物を持って帰宅すると、キッチンテーブルで融けたア
イスを発見した。飲みかけのビールもある。風呂場からシャワーの音がする。
さてはシミちゃんも浮かれてるんだな、良い歳して。
僕はニヤニヤしながら風呂場へ向かい、
「シミちゃん、ただいま」
湯気で曇る扉を開けた。
シミちゃんはどうやら、オウサマペンギンになってしまったらしい。
頭と胸の黄色い模様が愛らしい、オウサマペンギン。
僕だって初めからこのペンギンがシミちゃんだと思ったわけじゃない。シミちゃ
ん流のジョークだと思って、家中を探した。
下駄箱をひっくり返している僕を、ペンギンは不思議そうに見つめていた。
ケータイも財布も靴もある。
どうやらシミちゃんは、僕に愛想を尽かして出ていったわけではないらしい。
途方に暮れる僕を尻目にペンギンはヨチヨチと室内を歩き、あちらこちらをつつ
いて回る。
「シミちゃん?」
呼びかけるとピタリと立ち止まった。
ジッとこちらを見ている。
「シミちゃん」
しばし固まっていたペンギンは、それから可愛らしく小首を傾げた。
シミちゃんなんだろうか。シミちゃんはこんなかわいいことしなかったけれど。
冷蔵庫にあった魚の切り身をあげると、シミちゃん、らしいペンギンは、それを
ペロリとたいらげた。どうやらお気に召したらしい。
お魚がどこから出てくるのかを学んだシミちゃんは、ずっとキッチンに陣取って
いる。賢い。やっぱりシミちゃんなのかもしれない。
「もう無いよ」
冷蔵庫の扉を見つめるシミちゃんに声をかける。
「お魚は買ってこないともう無いです」
僕が大人げない感じで繰り返すと、シミちゃんはこっちにチラッと視線をくれて、
それから部屋を出ていった。
やれやれ、と息をついたのも束の間、僕は慌てて立ち上がった。
シミちゃんはどこに行くつもりなのか。こんな閑静な住宅地でペンギンがヨチヨ
チ出歩いていたら、ワイドショーご出演沙汰だ。それは勘弁してもらいたい。
玄関まで行って施錠されているのを確認してから、シミちゃんを探した。
シミちゃんはお風呂にいた。器用にもドアを開け、飛び込んだバスタブでプカプ
カ浮いていた。
バスタブには水がたまっていた。シミちゃんが好きな水風呂だ。夏になると長々水
風呂に浸かって、本を読んだり音楽を聴いたりお酒を呑んだりしていた。風呂から
上がると、キンキンに冷えた身体とふやけた指で僕を抱き締めてくれた。きっと今
日もそういうつもりだったんだと思う。
シミちゃん。
明日から夏休みなのに。
たっぷりと水の張られた小さな風呂で、シミちゃんは満足そうにクルクルと回っ
ていた。
バイトのない日は昼までぐうたら寝るのがお決まりだった。日が上りきった頃に
起きてきて、誰かさんがとっちらかした洗濯物を片付けて、ご飯を食べて、買い物
に行って、夕飯の支度をして、帰ってくるかわからない恋人を待ったり待ちわびて
寝てしまったりで一日が終わる。
今日も目が覚めるまではそのつもりだった。
意識が浮上して、連休だと気付いた。それから何かを叩くような音にも気付いた。
気付かなきゃ良かった。
飛び起きて音のする方へ向かうと、ペンギンがいた。最悪だと思った。ごめんね
シミちゃん、最悪とか言って。でも最悪です。
相変わらずペンギンのままのシミちゃんは、クチバシでカツカツカツカツと冷蔵
庫をノックしていた。悲しい目覚まし。
「シミちゃん、やめて」
声をかけると、やはり賢いシミちゃんペンギンはすぐにノックをやめてこちらを
見た。
見つめあう僕たち。遠くからセミの声がする。
どう考えても、空腹のアピールだった。
僕だって恋人を餓死させたくはない。たとえそれがペンギンでも。
僕は財布をひっ掴むと、最寄りのスーパーへ鮮魚を求めて走った。鍵をかけるの
は忘れなかった。
まだ夏の残る9月の青空が酷く憎たらしかった。
シミちゃんは大人しいペンギンだった。
ご飯を要求するとき以外は静かに部屋を散策したり、佇んだりして、後は大体お
風呂に浮いていた。
僕は愚かにもインターネットで人間がペンギンになった症例が無いかを調べた。
もちろんあるわけが無いのである。検索結果0件の表示を見て、自分の馬鹿さ加
減を呪った。
お医者様に見せるにしたって、何科に行ったらいいのだろう。そもそも人間の病
院でいいのだろうか。獣医に見せるべきなんだろうか。
大体シミちゃん本人がお医者様なんだから、自力で何とか出来ないもんなんだろ
うか。
そう思いながらペラペラ一枚羽のシミちゃんのお手てを見て我に返った。こんな
お手てじゃカルテも捲れない。シミちゃんの長くてきれいな指は失われてしまった
のだ。
例え病院に見せに行ったとして、僕のほうが精神科送りになるのは目に見えてい
た。シミちゃんは保健所かどっかに連れて行かれてしまう。そんなのは困る。しか
し恋人がペンギンなのも困る。八方塞がりだ。
大概僕も疲れてきていた。
シミちゃんのご飯を買いに出る以外は、いつもよりかなり冷やした部屋で訳の解
らない事態にひとりで向き合っているわけなのだから。
絶望が色濃くなったのは3日目の晩だ。
シミちゃんの携帯電話に着信があったのだ。
これまで何度かメールは入ったようだったが、着信はこのときが初めてだった。
しかも何度も。
きっと同僚の方だ。
緊急だったらマズイかな、と思って代わりに出ようとした瞬間に気付く。
シミちゃんは職場で僕のことを話しているだろうか。少なくとも僕は自分の職場
でシミちゃんの話をしていない。とりあえず友人です、とかで乗り切ったところで、
次にこの事態をどう説明したら良いのだろう。説明したって理解してもらえないだ
ろう。もし都合よく納得してもらったとして、その後はどうなるんだろう。きっと
病院か、警察か、どこか遠くの凄ーい偉ーい研究所かを紹介される。もしくは無理
矢理連れて行かれる。
それどころか、話しても納得してもらえず、僕がシミちゃんをどうにかしちゃっ
たと思われたら。
結局どうしたって僕とシミちゃんは離ればなれだ。
ひとつの希望も見出だせず凍りついている間に着信音は止んだ。
僕は立ちすくんでいた。
そしていろんなことを考えた。
僕が家出同然でここへ転がり込んできたこと。ここの他には気軽に帰れる場所も、
頼れる人もいないこと。シミちゃんのことを何も知らないこと。シミちゃんのお父
さんもお母さんもご実家の場所も、お友達のことも、何もかも知らなかった。僕は
今までシミちゃんに養われていた。自分で稼ぐことはちゃんとしていたけれど、さ
すがに家賃や光熱費を全部は払えなかった。シミちゃんはイヤミの一つも言わずに
僕を住まわせてくれていた。
シミちゃんがこのまま元に戻らなかったら、どうしたら良いんだろう。
まさかペンギンのシミちゃんを置いていくわけにもいかない。荷物一つとシミち
ゃんを抱えて一人と一匹で夜逃げするしかない。とんだ愛の逃避行だ。どこかの町
の安アパートは動物OKだろうか。ペンギンはダメだろうか。シミちゃんはよく食
べる。食費もかかる。安アパートって、クーラー無いんじゃないだろうか。
どうしよう。
どうしようもない。
どうしようも無さすぎて、僕は床にへたりこんだ。
なにこれ。どうしよう。
だらりと下げた手の中で、シミちゃんの携帯電話がまた鳴った。お風呂から出た
シミちゃんが、電話を興味深そうにつついた。シミちゃんは実に利発だ。
僕の連休は終わってしまった。シミちゃんはまだ夏休みだと油断しているのか、
一向に人間に戻る気配がない。
言って解るものかはともかく、バイトの朝、僕はシミちゃんにお留守番を頼んだ。
「僕、夕方には帰るから。エアコンつけたままで行くからね。お風呂に水張ってあ
るから。ご飯もお風呂に置いといたから。冷蔵庫ツンツンしちゃダメだよ。誰か来
ても鍵……は開けられないだろうけど、騒いじゃダメだよ。」
いいこにしててね、なんて前だったら絶対に言わないようなことを口にして、嬉
しいやら悲しいやら、たぶんものすごく切ない気持ちになった。
けれどシミちゃんは何を気にするでもなく、解ってんだか解ってないんだか、風
呂場に直行した。行ってらっしゃいくらいあってもいいじゃない。
玄関に並んだお揃いのサンダルが酷く虚しかった。
雷雨の中帰宅した僕を悲劇が待っていた。
夕立でビタビタに濡れて帰ると、玄関でシミちゃんがお出迎えしてくれた。感激
した僕はシミちゃんを抱きしめようと一歩踏み出して、そして気付いた。
なんか臭い。
シミちゃんが臭いのかと思ったけれど、どうも違うらしい。臭いは部屋の奥から
漂ってきている。生臭いような、すえたような、なんともいえない臭い。
僕は濡れた服もそのままに慌てて部屋へ上がった。
異臭の原因は一目瞭然だった。
そこら中に転がったシミちゃんのご飯――つまりお魚の食べ残しと、シミちゃん
の落とし物。散らかった部屋。
玄関から着いてきたシミちゃんが愕然とする僕をペタペタ歩きで追い抜いていっ
た。
シミちゃんは大人しいからと部屋に放していったのが大失敗だった。
薄暗い部屋を雷が照らした。
惨状がクッキリと浮かび上がる。すると、離れて魚をつついていたシミちゃんが
ビクリと身体をすくませ、バタバタと落ち着かなく歩き回りだした。
どうやら僕の長い不在と雷に驚いての犯行だったらしい。
やるせなさが全身を巡り、仕方無いと思いつつも怒りは堪えられなかった。
カッとなった僕はシミちゃんを抱えると、風呂場に連れていきそこへ閉じ込めた。
椅子や洗濯カゴで扉を開かなくする。
プラスチック製の扉からは、カツンカツンとシミちゃんがノックする音が聞こえ
た。ぼやけた黒いシルエットは、どこからどう見てもペンギンだった。
グチャグチャになった部屋のエアコンを止め、電気をつけた。
窓を開けて臭いを逃がす。
外からは夕立でぬるんだ空気が流れ込んできた。夏の終わりのにおいがした。
片付けをしながら考えた。
いつかシミちゃんが元に戻るなんて考えが甘かったのだと。大人しいし最悪一緒
に逃避行すればいいなんて無茶だった。何だかんだシミちゃんはペンギンなのだ。
人間ではない。良いことと悪いことの区別がつく、立派な大人のシミちゃんはもう
いないのだ。
今のシミちゃんは、僕の太腿くらいまでしか背のない、足の短い、キレイな指を
失ったペンギンなのだ。聞き分けのない子供のように、気ままに生きている飛べな
い鳥なのだ。以前持ち合わせていた気遣いやユーモア、万事に対する匙加減なんて
いう文明はすべて無くしてしまったのだ。
いっそ鳥なら飛べる鳥になって、どこかへ飛んでいってくれたほうが良かった。
ペンギンなんて、エサも環境も手間ばかりかかる飛べない鳥ではなく。自由に飛べ
る鳥なら、窓を開け放ってシミちゃんの好きにさせたらいい。どこかへ好きに飛ん
でいって、好きな場所に巣を作り、素敵なつがいを見つけ、ピーチクパーチク子孫
繁栄したらいいのだ。どこか遠い僕の知らないところで。
吹き込んだ風に我に返る。シミちゃんがいなくなればいいなんて、そんな。
顔を上げると、1人では広すぎる部屋が広がっていた。生臭い。シミちゃんが買
ってくれたゲームにも、シミちゃんのうんちがついていた。我慢していた涙が、つ
いにポタリと床に落ちた。
いつかシミちゃんも僕も歳をとって、それでもそのときまで一緒にいられたら、
シミちゃんに介護が必要になったら、僕は必ず下の世話もすると、ぼんやりながら
そう心に決めていたのに。いざこんな形で現実になったら、僕は怒るばっかりで、
愛の名の元に笑って許すこともできない。
シミちゃん。
僕はシミちゃんがすきだった。
落ち着いた声も、長い指も、ちょっと意地悪なところも、ただっ広い器も、何も
かも。酔っ払ってどうしようもないところだって、お風呂で寝てしまうところだっ
て、トイレに長居するところだって、何もかもがだいすきだった。
神さまは僕を試しているんだろうか。
カツンカツンとシミちゃんがドアを叩いて僕を呼ぶ。シミちゃんのうんちを擦る。
拭き取った側から涙が落ちてまた濡れていく。
シミちゃん。
シミちゃん。
僕は大きくしゃくりあげ続けながら、うんちを拭いた。シミちゃんがくれたゲー
ムを、涙の水分でピカピカに磨きあげた。
泣きすぎてカラカラになった僕の中には、もうなんの力も残っていなかった。
見渡す限り美しく掃除された部屋をトボトボと後にする。
気付けばシミちゃんのカツンカツンも止んでいた。
明日、まだ夜の明けないうちにこの家を出よう。
シミちゃんとは、近くの大きな川でお別れしよう。
きっと誰かがシミちゃんをみつけて、ワイドショーでとりあげられて、優しい専
門家が安全なところへ連れていってくれるだろう。あそこの川はキレイだし、魚も
いっぱいいる。釣り人もいるから、きっとすぐにシミちゃんを見つけてくれる。
シミちゃんごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
どうか僕を許してください。
静まりかえった風呂場を横目に寝室へ向かう。ひとりには広すぎるベッドのうえ
で、僕は力尽きるように眠りに落ちた。
夢の中で、シミちゃんのクシャミを聞いた気がした。記憶のなかのそれと同じ豪
快な一発に、僕はケラケラと笑った。
バタン、ガタンという大きな音が夜明けの静寂をぶち壊した。僕は強制的に現実
に呼び戻された。ズキズキと痛む頭が回り始める前に、部屋のドアが凄まじい音を
たてて開いた。
「寒い!」
飛び上がって振り返った僕の前にいたのは、バスタオル一枚でガタガタ震える、
人間の、シミちゃんだった。
唖然としている僕をよそに、シミちゃんは文句を言いながら近づいてくる。
なんで起こしてくれないんだよ、9月に水風呂はもう限界だよ、なんでお前ドア
の前に椅子とか置くの。俺温泉で良いって言ったじゃん。何か不満なの。
「そういうの口で言ってよ」
シミちゃんはプリプリ怒りながら、おお寒い、と僕に抱きついた。キンキンに冷
えた大柄な身体が、寝起きでジンジンしている僕を包んだ。冷たい。
「冷たい」
「そうだよ、風邪ひいたらどうするんだよ。夏休みパァだよ」
シミちゃん。
「シミちゃん」
「なに」
「シミちゃん」
冷たいシミちゃんに抱き締められたまま、僕は昨日の比じゃないくらいわんわん
泣いた。驚いたシミちゃんは僕の熱を計り、脈拍を確かめ、目蓋の裏を覗き込んで、
おなかを触診した。扁桃腺の腫れも確認された。身体のどこにも異変は無いのにそ
れでも泣き止まない僕に対して散々温泉以外の希望を訊き、欲しいものを尋ね、挙
げ句の果てに女の子と浮気したことを自白した。僕はシミちゃんを一発殴った。
それからシミちゃんに抱きついた僕は更に泣き続け、最終的にお隣から苦情がき
て泣くのをやめた。そういえばまだ明け方だった。爽やかな9月の朝だった。
その日のお昼に、シミちゃんと僕は海へ出かけた。電車を何度か乗り継げば着く、
近くの小さな海だ。
夕陽がキラキラ反射する波間にサーファーたちが漂っていた。
新品のサンダルを存分に汚して砂遊びするシミちゃんを見て、僕はこの人が好き
だなあと思った。
END
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家出したペンギンが無事に見つかったそうで良かったです。
ひとりは寂しいもんね。
昨年の夏に練り始めたのですが、9月がすごい勢いで通り過ぎて、
夏の終わりの海に実際には行けませんでした。
冬の夜にようやく行きました。
書き始めたらペンギンが脱走して、
UPしようとしたらペンギンが発見されました。
なんだかよくわかりませんが、久々に書きました。
うーん。いまNHKSP見てます。うーん。
